昭和43年9月15日朝の御理解第95節


 ただ今から、昭和43年9月15日朝の御理解を頂きます。御理解第95節「世には神を売って空ものが多いがこの方は銭金では拝まぬ神を商法にしてはならぬぞ」お供えを持ってこなければ、拝んでやらんとよくありますね。例えば、お守札。お守札なんかをお願いすると一枚百円とか御祈祷料がいくらと、例えば、最近は神前結婚なんか多いです。けれど、一セット30000*5000*10000*と言うふうに料が決まっておる。これなんかは正しく銭金でおる分なんですね。そういうものを信心と言うならば、やはりそれは銭金で拝んでおられる。この方は銭金では拝まんとそういう信心に脱してしまってはならんぞ。神を商法にしてはならんぞ。自分が食べて行くための神様にしてはならんぞ。生活のための信心であってはならんぞ。これは厳しくここでは、これは取り次ぎ者に対する教祖様のお教えだろうと思うのですけれども、これは、決して取り次ぎ者だけの者ではありません。一般信者の者がここんところがよく分からねばならない。分かりやすく言うなら、ここで私が朝から晩まで一生懸命、働かしてもらう分けですよね。それが私がここで一生懸命座って奉仕をしておかなければ、家の者を賄うて行かねばならないから、家内やら、子供やら、親やら養うていかなならんから、私がここへ一生懸命座っておるとしたならば、これは銭金で拝んでおると同じなんですよ。ところが形は同じでありましても生活、そんなこと考えた事もない。私共の修行時分の事を思うて見ると生活のことなんか、たとえば、私共は風呂に入ろうとも思わなかったんですから、着物もこれ以上着ようとも思わなかったし、もちろん、こうして一生懸命信心しよれば、食べものをか神様が与えてくださると言ったような事で信心をしよったのではなかった。今でもそれは変わらない免角神様の御用、神様に奉仕させて頂くと言うことは世の中の難儀な氏子が助かりさえすればよい。みんなが助かってくだされば良いという一念がここへ私がこうして修行させて頂いておる事なんです。私がいうなら、神様にお喜び頂ける。神様にご安心して頂ける。難儀な氏子が取り次ぎ、助けられる事のために奉仕する拝詞の中にございますでしょう。神も助かり、氏子も立ち行く道の開かれましたことは真にありがたいことでございます。ありがたい極みでございますと言うように神が立ち行く、神様が立ち行ってくださる。神様が喜んでくださる。神も助かり、神様が助かってくださると言うこと。そこには氏子の立ち行きが約束されておる。私がここに一生懸命生活のために座っておらんでも神様が立ち行きなさるために座っておけば、生活のことは神様が見てくださると言うことである。ですから、形の事は同じでありましても内容思い方が全然違う。生活のために生活のために座る。人が助かることの為に座る。そこには私共一家中のものが立ち行くおかげを神様がちゃんとくださってある。それはもったいないほどに立ち行く程のおかげをくださっておる。そういうようなことです。ここんところが分かったでしょうか。御理解95節はそういうことを教えておられる。ここでおはつをお供えしなければ、御神米をあげないということではない。ここで神前結婚があります。いくらいくらなからなければ、ここで神前結婚が出来ないと言うことではない。私共たくさん神前結婚いたしましたけれども、ある難儀な方の結婚式に私はお供え一切ここで整えました。もちろんお礼など考えませんでした。それでやはり立派な結婚式があげられた。先生お願いしますと言うて見えたら、私はそれはいくらいくらなからなければ、結婚式は出けんよとは言わなかった。いわゆる神を商法にしてはならんとおっしゃる。神を商法にしてはいけないのです。お守札が一枚いくら御祈念料、御祈祷料がいくらこれなどは正しく、いわば、銭金で拝んでおるということになる。金光様の信心はそういうものではないということです。そこでなら、これはお取り次ぎさせて頂く先生教会という教会だけじゃあない。お互いの場合もこれは当てはまるのです。初めの間はやはりみんながおかげを頂いて教えが分かってくるようになり、教えを信じるようにならしてもらうと教えを信じさせてさえおれば、教えを信じておこのうてさえいけば、おかげは頼まんでも、頂けると言う。おかげを頂けんお参りをしよるともし、おかげを自分の思うようにならんと信心が迷うたり、間違うたりしてくるんです。おかげで参りよるのじゃあない。信心を頂くために参りよるのだ。信心を頂くということが、お道の信心なのだ。教えを頂かしてもらう。夕べの御理解の中にこういう御理解がありました。神を信じると言うことはね、教えを信じると言うことだということ。私はこのお教えを頂いてから、本当に非常になんと言うかね、そうだなあと言う思いをいたしました。神を信じると言うことは教えを信ずることなのです。ですから、教えを信じて疑わずに守って行きゃあね。神様を信じなければ、おれないほどにちゃんとおかげをくださるのです。神様があるのないの神様がござるのござらぬと言うておる人でも教えを開いて教えを信じて行のうたら、そこに神様が現れてくださるのです。だから、お道の信心はどういうことになるかというと信心、教えを信ずること。教祖様が教えてくださったことを信じること。それを伝えてくださる先生の言われることを信じること。それが信心なんです。ですから、教えを信じるところからです。私共はいわば、ゲサーカ信心をせんでよかです。ところがこの頃ゲザーとする信心をする。下品な信心をする人たちが多くなってきた。おかげおかげとおかげばかり追い求める信者が多くなってきた。おかしなことにその教会を教会自体がゲザーカした教会が多なってきた。その証拠にさあ自分ところの信心がどこにとられたうちの信者がどこに入ったとまるきり自分方の商品のごと思うとる信者がまるっきり自分方の米びつのことに思うとる。だから、その米びつがよそに行くから、やっぱりもやもやしたり、腹が立ったりするわけです。教えを信じていないから、もう20年も前でした。けれど、ここに今日も参っておられます。あるほうがそのほうがある教会から、ある教会へ点々とされた方たのです。そして私の話を聞かれてから、だんだんおかげを頂かれてここへ参って来られるようになった。先生、私は悩んでおりますとこう言われる。どういうことを悩んでおりますか。私はだいたい**教会の信者でございます。ところが現在では、**教会におかげを頂いております。そのために先生達の喧嘩がある。私一人があっちへ言ったり、こっちへ行ったりしたばっかね。あんたは道を間違っておるとか。何とか言うてその先生達が争われる。どうしたらええじゃろうか、と言うて悩みを私に打ち明けられた事がある。そして、私は御神眼にね、馬を二匹頂いた。馬を二つ合わせるとうまうまになる。第一自分たちのうまうまにかかわるもんだから、あの信者は私の信者、いや、私の信者、うちの信者にせにゃあということになってくる。いわゆる、正しく食べることのために教会があるような感じ、それは教会の看板を掲げておりますから。金光教の看板をかけてありますから、その看板に対して金光大神のお徳によってここに生活が出来ておるだけのことぐらいおかげをくださっても、だからそういう教会は御比例がたちません。そして、あんまりその事が煩わしいもんですから、もうあそこへも参るまい。ここへも参るまいということになって、結局ここへお参りする様になってもう18年間になります。その方はそういうことです。うまうまの為に食べることのために信心をさせてもらったり、しておるとそういう結果になるんです。ですから、これはなら先生がだけじゃなくて皆さん方も同じことが言えるわけです。おかげを頂くために信心しておったら、おかげにならなかったら、やっぱりやめようごとになる。迷うごとに奈留。当然の事、話を聞いて助かる道とおっしゃるが、話そのものを信ずる、信ずるからそれを私共の行の上にあらわして行く。現わして行くからおかげが現れる。だから、神様はやっぱりござるんだなあと言うことになる。おかげを頂く為に信心するんじゃあない。教えを頂くために信心を頂くために教えを信じる。教えを頂くために信心を頂くために教えを信じる。教えを頂くと言うことは、これは信心を頂くと言うことである。段々信心が言わば、巧者になって参りますと。そこにどうしても不純のものが出けてくる。生活の為の言わば、信心であってはならん。生活の為に信心しておるならば、それは銭金で拝んでおるのと同じこと。形の上においては同じこと、神様に喜んで頂くために信心を身に付けていく事の為に教えがありがたいから、教えを信じて疑わず、その教えをこうじて行くことがありがたいから、信心しておるのである。お参りと言う形においては一つも変わりはない。**ここからも二チーム御用することになった。ところが昨日末永先生が出て来ましてから、今日甘木に練習試合に参ります。今日は甘木教会に電話をかけました。コートを貸してくれ。そしたら、「どうぞ」と言うことになった。お伺いをせず、自分勝手に決めて、だからお初穂をせんならんから、お初穂をくれと言う。それは一回ぐらいは出してあげようけれども、それなら、ちゃんとお伺いぐらいしてから、決めなきゃあ。合楽の教会のために青年会の為にわざわざ甘木の教会ではネットを張ってあげたり、いろいろとしなさらなならんじゃあないか。考えて見てごらん。甘木の教会なんかはみんなこうやってこちらから甘木の教会、甘木の教会と言うて行くけれども、あちらから、いっぺんでも来たことがあるか。それこそこちらが礼を尽くしていってもそれに対してお返し一つもしないじゃあないか。合楽の事、どう考えておるかわからない。それなのにようあつかましくそういうことが出来るね、とそう私は言うたんですけれどもね。結局、私の心の中に不純なものがあるから、そういうことを言うんです。その点、若い人たちは実に純粋だなあと私は思いました。すぐ、そのあと私は申しました。若い人はいいなあ、何も考えず、そういうことが出来る。平気で出ける。そういうて見れば、この頃中学生の三年生のつどいがあそこで一晩泊まりであったんです。ここからも4名か5名行きました。そして結局は甘木関係の少年少女会の方達と一番仲良うなって文通するまで仲良うなった。親達は変な思いでおっても子供たちは無邪気なもんじゃ合楽と甘木の先生共が手紙のやりとりするぐらいに仲良うなった。青年会の一夜実習会があれば、ここからもたくさん行なっておかげを頂いてやはりあちらの青年信徒といっしょに信心の高揚をしてきておる。そういう心易さがだんだん出来てきておるもんだから、平気で電話をかけたわけなんです。甘木へ、そしたら向こうもどうぞというわけです。私はその時思い、もし言うたことですけれども、青年の人たちはいいなあ、若い人たちはいい。純粋だから、何もわだかまりがない。向こうが無効だから、私のこのみでは正しく不純なものがあるわけですね。たとえて一例言うなら、記念祭なら、記念祭と行ったような時でももうこちらが例をつくしておるのに誰も参拝してこなかった。記念品をわざわざ持って礼をつくして行ったけれども、それに対してお返しもしなかった。免角合楽を馬鹿にしているもはなはだしい。それがです。親と親との場合はね、うまうまに関係するからなんですよ。甘木の信者がここへ来ておると言うようなものが何とはなしに何かあるわけなんです。もう知らず知らずの中に銭金に拝むような信心に出しつつあるわけです。全教一心全教一家といわれるけれども、そういうたとえば、不純なものがあっていかにここに甘木関係、久留米関係がいっしょになったところで結局は決して全教一家の様な事になってこないんだ。けれど、そこは若い人はありがたい。純真である。これは本当に金光教のこれからの信心、いわゆる全教一心全教一家をスローガンとして全教が立ち上がっておかげを頂くなら、これはもう若いものでなければ、出けんと私は昨日思いましたよ。若い人たちは何もない。純粋な信心を交換して本当に親戚付き合いが出けるようなです。おかげが出来るようなら、もう私共の世代ではだめなんだ。これは若い者のそれにならなければ、その人たちが立ち上がらなければだめだ。そういう意味合いで中学生会とか、青年会の方達は実に積極的である。そういうことを全然考えていない。この人たちに期待することはいよいよ大きいと言う感じがいたしました。そして自分の言うたことが恥ずかしい。言うてすぐ感じましたけれども、やっぱり不純なものがある証拠なんです。会えば、なんとはなしにぎこちない感じです。夕べ遅く帰り参りましてちょっとだけ待って頂いてから、あちらにはもう専門の先生方達がおられるから、いろいろコーチして頂いたんです。あちらの親先生まで出て来なさった。明日は合楽団は応援するばいと言うてから、あちらの親先生が言いなさったとか言うてですね。大変機嫌ようみんな帰って来ました。そういうような事からですね。例えば、甘木と言うなら、合楽が交流しだしたら、他の者がみんな見習うてくるだろうね。本当に若い者のいわば、信心と言うか、信心のそういう交流と言うところから、本当の全教一心して全教一家の願いと言うものが成就される。いまこそ、若い人が立ち上がるときだ。思うて見れば見るほど、やはりいつどのような場合でも大きな転機に達するときには若いものが立ち上がっておる。明治維新だってそうである。仏教の草分け時代もそうである。みんな24、5歳から30歳までぐらいの青年教師、または先生方が立ち上がってああいう。いうなら快業を成し遂げておる。それは純真だから、欲もない。徳もないから、うまうまのことなど考えていないから、まあいうならば、生活の上に立っていないことでもあるけれどもです。そういう純真さが私は今教団の上には必要な時であると言うような事まで感じさせられましたですね。この95節からね。いわゆる不作の信心とこう言う。食べものに関係がある自分たちの信者を取ったの取られたといったようなことはです。もうすでに銭金で拝んでることになるんです。金光大神の氏子だとどこへ行ってどうしようが、おかげだけさえ頂いて行けば、それでいいじゃないか。教えを信じて頂いておったら、そういうことは問題じゃあなくなってくるのだ。私共がただ今申しますように銭金じゃ拝まんといいながら、どこかにそういう不純なものがです。いつのまにか出来て来ようる事に気づかして頂くのでありますから、私は信心で、私は信心を頂いて行くことでお参りをしようると言うても、お互いの信心の中には時々反省をさせて頂きませんとそれが不純なものになって行きよるときがある。どこまでも純粋なもの、いわゆる神も助かりとする。十三日会の時の御理解の中にございますように「神様の願いが成就することの為に奉仕するグループだ」素晴らしい言葉です。それでいいのだ。そこにはね、次には氏子の願いが成就することの為に神様が働かれると言う結果が生まれてくるのですよ。私共はそういう言うなら、純粋な清い美しい信心をさせてもらわないかん。ここへ私が座っておると言うことがです。私共大坪一家の者が生活の為に私がここに座っておる。難儀な氏子がたくさん足すかってくださる事の為に座っておる。同じことでしょうか。内容が変わるだけそこには、私共一家も結構なお賄いを頂いておる。ここで今申しますように形は同じであってもおかげがたとえて言うならば、銭金では拝まんという生き方であってこそ、初めてたくさんの信者が足すかってくるのです。銭金で拝みだしたら、信者の出ける増えるはずもない。神様の願いが成就していくはずもない。だから、そこんところをですね。ここは教えておられると思うのですよ。ですから、なるほどおかげを頂きたいと言うてお参りをしてくるなら、それこそお願いをしたならば、神様の願いも聞いて帰らにゃあいけません。それが教えなんです。そしてその教えを信ずるおかげを信ずるのではなくてその教えを信ずる。その教えを信ずる教えになって参りますとそこに本当の信心がそこから生まれて来るのです。そして若い人たちの中にある純粋なものを私共はやはり見習うし行かねばいけない。何時の間にか不純なものがついてくる。いわゆるうまうまの為に私共が奉仕しておったんではそれは奉仕であって奉仕にならん。本当の信心を身に付けて行くことの為に銭金で拝まんとおっしゃるような信心を私共は頂いて行きたいとこう思いますね。どうぞ。